サンフランシスコ号は、1609年に千葉県御宿町沖で沈没したスペインのガレオン船です。この船は、スペインの航海者アンドレス・デ・ウルダネタが1565年に発見したマニラ・ガレオン貿易航路の一部を担い、フィリピンにあるスペインの植民地とヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)を結ぶ重要な役割を果たしました。この航路は、銀や香辛料、織物などの物資が太平洋を横断して交易される上で不可欠であり、サンフランシスコ号もヌエバ・エスパーニャへの帰還の際にこの航路を使用する予定でした。

1609年7月、サンフランシスコ号は、フィリピンのカビテを出航し、元フィリピン暫定総督ロドリゴ・デ・ビベロの指揮下で航行しました。目的地はヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)のアカプルコでしたが、旅は困難に満ちていました。マニラ・ガレオン貿易航路から大きく逸れたガレオン船は、嵐に見舞われ、最終的に日本の海岸近くで暴風に遭いました。9月30日の夜、65日間の航海後、サンフランシスコ号は千葉県の岩和田村(現在の御宿町)近くで座礁しました。
図2:サン・フランシスコ号の3Dコンセプトモデル


日本からの援助と生存者
約400人の乗員のうち、約300人が沈没から生還しました。ロドリゴ・デ・ビベロを含む生存者たちは、地元の人々から驚くべきもてなしを受けました。岩和田村の海女(あま)たちは、打ち上げられた生存者たちの体を素肌で温め、食料や衣服を提供することで彼らを助けました。
御宿町の人々による救助活動の後、ビベロは江戸(現在の東京)で徳川秀忠に招かれ、その後、駿河国(現在の静岡県)の駿府城で将軍・徳川家康と謁見しました。ビベロの記録には、旅の途中で手厚いもてなしを受けたと記されています。
ビベロは将軍との会見を通じて、スペインと日本の間の外交関係を促進する重要な役割を果たし、両国の間の初期かつ重要な交流を示しました。家康は生存者の世話をし、彼らのヌエバ・エスパーニャへの安全な帰還を促進しました。ビベロに与えられた帰還船「サン・ブエナ・ベントゥーラ」は、日本国内で初めて建造された西洋式の船であり、家康の顧問でありイギリスの航海士であるウィリアム・アダムズの指導の下で建設されました。1610年、ビベロはこの船を使用して、22名の日本人乗組員を連れてニュースペインに帰還しました。

この出来事は、江戸時代の日本の国際関係における役割を強調しており、鎖国政策にもかかわらず、外国との慎重な交流が行われていたことを示しています。スペインの生存者たちの経験は、両国間の貿易や相互支援に関する交渉の道を開くものとなりました。
1611年、フェリペ3世(スペイン王)の使節としてセバスティアン・ビスカイノが日本を訪れ、家康に国王からの贈り物を渡しました。その時計は、1581年にスペインの時計職人ハンス・デ・エヴァロによって作られた感謝の印でありました。この時計は現在、久能山東照宮に保管されており、家康の最もお気に入りの私物であったとされています。

財宝探しと考古学的な謎
サンフランシスコ号には、貿易に用いる貴重な貨物が積まれていました。難破後、現地の村人たちは船から引き上げられるものを救出しましたが、船上にあった財宝についての噂が、何世紀にもわたりトレジャーハンターを引き寄せました。これらの努力やいくつかの調査にもかかわらず、船の残骸や貨物の大部分は今だ確実に発見されていません。遺物の一部は波にさらわれたか、海に飲まれたと考えられていますが、他の部分は砂や岩の下に埋もれている可能性があり、発見を待っているかもしれません。
継続的な調査
現代の考古学的調査は、御宿周辺の潜在的な難破地点に焦点を当てています。特に、船の一部が漂着したと考えられている田尻湾が注目されています。また、地形や強い海流のために、残骸が厚い堆積物で覆われている可能性があると仮定されています。そのため、当社の調査は御宿町から始まり、調査の進捗状況について定期的に報告する予定です。この海洋災害が持つ歴史的・文化的な重要性を明らかにすることを目指しています。サンフランシスコ号の遺産を解明することで、マニラ‐アカプルコ貿易路の新たな洞察を引き出し、その世界史への影響を明らかにしたいと考えています。

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